毎月第1土曜日に行われている田谷山定泉寺の坐禅会。
梅雨の時期は洞窟が濡れる為、本堂になることが多いとのことでしたが
今日は瑜伽洞で坐禅出来ました。
それでも洞内の壁はかなり水分を含んでいて、壁が黒っぽくなってます。
そのために刻像があまりはっきり見えません。
参加者は新参5名ほど含めて25名くらいでした。
五大明王に向かって1列で並べる程度です。
(古参の方は他のフロアでちりぢりに坐禅されてます)。
ぽちは五大明王の端、大威徳明王の前でした。
牛さん牛さん〜♪(大威徳明王は牛にまたがってます)。
牛の耳が愛らしい形に彫れてるなぁなんて…雑念!
水分を多く含んでるせいか冷えてきて、いつもより早く足が痛くなって
しまいました。
このお洞窟は冬よりも梅雨・秋が冷えます。
坐禅のあと、本堂に戻って読経。
和尚さんからのお話はお盆のことでした。
お盆ではご先祖の魂が「かえってこられる」わけですが、「かえる」というのは
表現が適切でないそうです。
日本人的な感情として「かえる」という感じであって、亡くなった人の魂は
普段全然別の所にいるわけじゃないと。
例として一休禅師の歌をあげられました。
死んだ後のことを問われての歌、『死にはせぬ どこにも行かぬ ここに居る
(たづねはするな ものは言わぬぞ)』です。
たぶん真言宗の考えだと思いますが、「亡くなった人の魂がどこにいくかと言うと、
宇宙すべて、そこかしこすべてに存在するようになるんだ」そうです。
宇宙からすぐそばまで。
そして、そのどこにでも存在する魂が、お墓に迎えにこられたり
迎え火の煙によって、子孫の家のお位牌そこ1点へ収縮するように
やってくる(小さくなってとどまる)そうです。
なので、お盆の初日や前日にお墓参りをするのはお迎えのためで、
お盆の最中にお墓参りをするのは空き家に拝みにいくようなものとか。
お彼岸とごっちゃにしないようにとのことでした。
ふと、お位牌がないと戻って来れないんだろうかなんて思ったら、
お盆の精霊棚やお位牌がないなら(分家とかそういうのは関係なく
自分があるのは先祖があったからなのだから仏壇をもつべきとの
説明もあり)、イメージするだけでもいいとのお話も
精霊棚にあげるお経を読むからそう呼ぶそうです。
知らなかった〜(身近に見たことないし)。
お盆の出来事(というか魂の移動云々?)自体が、日本の感性や習慣と
仏教があいまったものなんじゃないかとぽちは思ってますが、お盆の
日本的な部分は宗派によっていろいろ考えが違ってて面白いですね。
浄土真宗ではお盆もご先祖が戻ってきたりしない考えです。
(極楽行ってるから←身も蓋もない言い方?)。
自分があるのはご先祖のおかげと、ご先祖を追慕し、ご恩を感謝する
ためにお経を読むそうですから。
ぽちとしてはこれ(浄土真宗の考え方)がいいかな〜。
ご先祖も半分は浄土真宗ですし。
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